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    <title>愛知県名古屋市方面で瞑想伝授、ヒーリング、ATMAHUT</title>
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    <updated>2010-09-03T03:03:03Z</updated>
    <subtitle>ATMAHUT（アートマハット）では愛知県名古屋市方面を拠点として、瞑想の伝授、ヒーリングなどを行っています。</subtitle>
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    <title>神聖な処方箋</title>
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    <published>2010-08-31T10:34:07Z</published>
    <updated>2010-09-03T03:03:03Z</updated>

    <summary>人間性とは魂が平安と静寂、真理、神を求める機会であるともされます。 カルマ、起こ...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[<div><font class="Apple-style-span" face="Times, helvetica, hirakakupro-w3, osaka, 'ms pgothic', sans-serif"><span class="Apple-style-span" style="white-space: pre-wrap;"><span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; ">人間性とは魂が平安と静寂、真理、神を求める機会であるともされます。
カルマ、起こる出来事、それらは過去に生じた何かが清算されるときに出てくると言えます。
清算の先には魂の求めるものがあり、そこまで距離があります。
その道が凸凹になるのかジグザグになるのかは、本当の自分である魂と、その目的を知っているかどうかに影響されるように見えます。

平安、静寂、真理、それらの現れである神を臆念して忍耐で黙々と滅私奉公することはその道を本来の姿にしてくれますから、滞っていたことが動いたり、何かが好転したりします。
しかし滅私奉公は、現代においてほとんどは誰かを自分の欲望のために踊らせるためのものと勘違いされがちな面があるように思います。
何に対して滅私奉公しているのかというと、人によって答えは違います。

もしその道のりが凸凹ジグザグで先が思いやられるような、あまりよくない鑑定結果だったとしても、あとは魂とその目的に沿えるよう道のりを整えてもらうことは、今の時代では大きな助けになります。
瞑想者は静寂のもとカルマをフリーズさせるため、起こるはずの悪い出来事が起こらないことが多々あるようです。

マントラの処方箋は、例えばインド占星術でいきますと、僕は火星（力など）の配置や、水星（論理性など）の弱さが悪い影響を与えるのですが、まず火星のマントラの処方箋を受けたらそれまで困らされていた自分の癖が沈静化していくのを実感しています。
これまでその影響により摩擦があって遅々としていたことがスムーズになっていきます。
次は水星のマントラを伝授していただける予定になっています。

水星が弱くても、強い金星（直感など）が一緒にいると水星を引き上げてくれるといいます。
僕は金星が強く、弱い水星と一緒にいます。
しかし同時に金星の直感を邪魔するともされています。
僕の経験では、確かに直感で物事を成し遂げるときになると論理性もあわせて強力に引き出されるのですが、逆にそのとき水星が悪く働いて無駄に考えすぎたり悩みすぎたりして実行に移れないという場合があるように思います。
またそれとは別に、金星がエンジンのピストンなら水星は歯車に例えることができるような気もしています。
またはしっかり合わない歯車同士が火花を散らしながら非効率的に遅々と力を伝えるような感じがしています。
あと、僕はインドでとある占星術師から「見返りのない（功を奏しない）相手にパワーを与えやすいので気をつけろ」と指摘されています。
インドで指摘してくださった占星術師の話を聖者にしましたところ「ガネーシャとシヴァに祈りをささげなさい」とアドバイスをいただきました。
ガネーシャはエゴを切り落とし、シヴァは魂を守護します。

僕のこうした欠点を最初に克服させたのは社会に出て滅私奉公したことでした。
しかし理屈だけは真理の形をしたような、まことしやかな嘘の多い社会では、その嘘の物量を前にしたとき、我流と持論の自力には限界があります。
理不尽なことにもエゴで反論せず、かつ魂を犯されないようにするため、僕はいつもそこを注意していました。
しかしそれを自力でやるのは限界があります。
ですのでそれら物量そのものを根底からくつがえし、また最初の1本の根から見抜くような、やろうとしていることを我流ではなく真にガイドしてくれて、本当のリアルタイムの気づきを得られる道を探していたとき、それを持つのが瞑想者であると知り、瞑想を習い始めてから、その遅れは日々改善されていきました。

でも瞑想だけではなく、神のサポートがあってこそ全体的に余すところなく整えられていくようで、マントラを処方されたり、プジャを受けたり、インドへ行ったりしたことが自分を昔の状態からどんどん変えていき、より本来の平安な姿を発展させることができています。

自分を守護できても、自分の癖の火の粉を周囲に飛ばさないようにするのはまた別ですので、僕はそうしたサポートを受けて行をしたり祝福してもらうたび「変わった（もちろん良い意味で）」と言われます。
しかしそれをきちんと受け取るには瞑想による静寂がないと取りこぼします。
でも、ただ「変わった」というだけでなく、どういう姿に発展していっているのか、本来の平安な姿で生きていくということの神聖さ、それを守護する恩寵とは何か、そうしたことがあります。

そうした成長を周囲に見てもらえるのは面白いです（笑）。</span></span></font></div>]]>
        
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    <title>9月の名古屋方面インド占星術鑑定および処方箋伝授のお知らせ</title>
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    <published>2010-08-24T14:31:44Z</published>
    <updated>2010-08-24T15:05:12Z</updated>

    <summary>９月５日はサッドサンガですが、前日の４日は阿部先生によるインド占星術の鑑定および...</summary>
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        <![CDATA[９月５日はサッドサンガですが、前日の４日は阿部先生によるインド占星術の鑑定および処方箋の伝授が可能です。<div><br /> <div>要予約です、詳しくはATMAHUTのトップページから阿部先生のサイトへのリンクがありますので、そちらからお問い合わせください。</div></div>]]>
        
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    <title>9月の名古屋方面サッドサンガ（瞑想会）</title>
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    <published>2010-08-24T14:20:23Z</published>
    <updated>2010-08-24T15:04:13Z</updated>

    <summary>少しずつ秋らしくなってきて、秋の虫の鳴き声が日に日に大きくなってきて心地よく眠れ...</summary>
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        <![CDATA[少しずつ秋らしくなってきて、秋の虫の鳴き声が日に日に大きくなってきて心地よく眠れます（笑）。 <div><br /></div><div>さて、来る９月５日は名古屋方面でのサッドサンガ（瞑想会）です。</div><div><br class="webkit-block-placeholder" /></div><div>すでに瞑想を伝授されている方が対象です。</div><div>初心者の方は、新美によりいつでも伝授可能ですのでお気軽にお問い合わせください。</div><div><br class="webkit-block-placeholder" /></div>]]>
        
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    <title>あふれる教え</title>
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    <published>2010-08-18T01:27:20Z</published>
    <updated>2010-08-18T02:50:05Z</updated>

    <summary>世の中いろんな教えがあるのですが、見てみるとどれも説いていることは最終的に同じで...</summary>
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        <![CDATA[<p>世の中いろんな教えがあるのですが、見てみるとどれも説いていることは最終的に同じです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>でもそれは表面的で、大切なのはそれを説くことでどこへ連れて行こうとしているかなので、僕はそこを見ようとします。</p>
<p>その道のトップの人や、その道がどの伝統から来ているのか、例えば神から来ていると言っても本当に神なのかどうか。</p>
<p>偉大なる神聖な存在とか、そうした高みに行けば行くほどそれは神と見分けがつかないので厄介だし、本物と同じ姿や言葉を真似るのは誰でもできます。</p>
<p>つまりこれが一番とか本物とか最高とか、やたら賞賛されてるものは嘘になりますから、裏に必ず何かあります。</p>
<p>その道で悟りの感覚に触れたとか、ワンネスを感じたとかあったにしても、それはあくまでも初歩の初歩ですし、そこで満足させようとするなら、なんでそこで留まらせようとするのか、そこには裏があります。</p>
<p>素晴らしい素晴らしい、と。</p>
<p>そこで嬉々としている限り、先には行けません、結局は欲望です。</p>
<p>自分のやっていることは本物で間違ってはいないし一番なんだと、それは結局はエゴです。</p>
<p>井の中の蛙。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>インドの寺院では悪魔のお面を飾るそうです、それは寺院の神聖さに有頂天になるとそれがネガティブになるからで、それを防ぐためだと。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>良し悪しもない、正しいも間違いもない、喜びも悲しみも、それに振り回されない。</p>
<p>平安と静寂。</p>
<p>それはとても重要なことだと聖者は言います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>静寂には、いかなる誘惑もとどまることができません、誘惑の主は静寂が我慢できず、去っていきます。</p>
<p>こちらが静寂のもと座っていれば、そうした誘惑から守ってもらうことができます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>本当の静寂があるとき本当の姿が見えて、見極めることができる。</p>
<p>瞑想はそういう点からしても助けにになるし、僕はいつも助けられています。</p>
<p>そしてその瞑想には裏があります、それがグルパランパラ、神聖な恩寵、その伝統です。</p>
<p>それがあって始めて瞑想は魂を守護してくれます。</p>]]>
        
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    <title>ご縁さん</title>
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    <published>2010-08-12T23:08:45Z</published>
    <updated>2010-08-12T23:36:11Z</updated>

    <summary>お盆で奥さんの田舎へ行った後、先日は僕の実家に行き、ご縁さんをお呼びしての法事に...</summary>
    <author>
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        <![CDATA[<p>お盆で奥さんの田舎へ行った後、先日は僕の実家に行き、ご縁さんをお呼びしての法事に参加しました。</p>
<p>世代交代で前のご縁さんの息子さんが来られることになったりと、ちょっとした変化がありました。</p>
<p>あと実家が僕たちが暮らせるようリフォームするというので、ワースツに反しないよう希望を出しておきました。</p>
<p>ワースツのことを言うと嫌がる人もいるのでそこは出さず。</p>
<p>個人的には実家に住みたくないんですが、そういうカルマを好んで続けるのか、嫌って反発するのか、その間でバランスを取るにはどうしたらいいかとたまに思います。</p>
<p>でもどうすればいいかと自分で考えるよりも、結局はまず静寂と平安で、かつ努力し、改善できる点は改善し、あとは神にお任せするだけです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>変化といえば今の仕事場は今年いっぱいで縮小移転するし、他にも結婚式で披露宴をさせてもらったレストランがもうすぐ閉店してしまうと聞いて少し残念です。</p>
<p>レストランはとても良心的で献身的なオーナーが独立して開いたお店なので、これも次につながる良い変化だと思って応援したいです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>法事は毎月あるのですが、前のご縁さんは「本当は一人で毎日、自分でやるのが一番です」と言っていました。</p>
<p>あんまり形にとらわれず「まあそこは別になんでもいいですよ」と言う方でした（笑）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>実家の法事では実家の家紋をデカデカとつけた提灯を出します。</p>
<p>僕がまず法事をする部屋に一人でいたところへ新しいご縁さんが入ってきて少しお話をしていました。</p>
<p>そこでご縁さんが提灯を見て「ふつうこういうのはしないんですけど、これはなんですか？」とおっしゃったのでは「よく知らないんですが、この家系は豪気なことが好きなのか、こういうことをしたがるのかもしれませんね」と答えました。</p>
<p>そのあと法事後の説教は、自分の力でやっているという慢心についての話でした。</p>
<p>孤独死とかも、もっと法事とかみんなが参加すれば定期的に連絡がとれるし、人との繋がりをもっと大切にしましょうね、と。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ、そうした信仰にかかわる話でたまに出るのが「他の宗教はわかりませんが、うちはこうで・・・」とか「他の宗教と違って、うちだけは・・・」というものです。</p>
<p>説教でもあった話に、うちは神様と取引して助けてもらうのとは違って、知恵によってすべてを照らしていく、というがありました。</p>
<p>いちおう神様という形を使いもするけど、と。</p>
<p>ですが、他の神様だって、同じようなところがあるというか、形は違っても宗教は同じだと僕は思います。</p>
<p>差別化はできません。</p>
<p>僕からみると、そこで行われることは神以外の何物でもないですし、他の宗教で扱おうとしているものと同じです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そういうことは現実的に実践するのは甘くなく、例えばそういうつもりがなくても、形や方法が真理や実体ではないと言いつつも、ちゃんとそれを身をもって実践できてるかどうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>やっぱ最後には必ずそこにエゴが出てきて隠します。</p>
<p>僕もいつも気をつけています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>インドへ行ったり色んな宗教の行事に参加できたり、そういうことがあると、個人的に思うどうこうは関係なく、本質的なところを見ようとすれば、それを味わえば、ただそう実感します。</p>
<p>例えば聖者がすべての宗教に違いはなく一つであると言うくらいです。</p>]]>
        
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    <title>シヴァのご挨拶</title>
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    <published>2010-08-10T07:46:32Z</published>
    <updated>2010-08-10T09:35:15Z</updated>

    <summary>瞑想しているのに、とくに自分からこれまでシヴァの像を買うことがなく、ずっとシヴァ...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[<p>瞑想しているのに、とくに自分からこれまでシヴァの像を買うことがなく、ずっとシヴァの像がありませんでした。</p>
<p>先週に帰ってきたインド旅の終盤で、聖者のインタビューを受けた際にシヴァの像を買うよう言われたので、帰国後ひとまず小さいのを購入しました。</p>
<p>シヴァ像が届いてさっそくアビシェーク（像に水やミルクをかける）したら、窓から冷たい風が入ってきて、そのままプジャしていたらズーンとエネルギーが来て、奥さんがクラクラしていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>風はシヴァのサインだそうです。</p>
<p>シヴァへの祈りは毎日していましたが、改めてきちんとシヴァのご挨拶をいただけたような思いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>昔、由布院で大勢の人たちとシヴァのマントラを唱えたらすごい風が吹き始めたり、または瞑想の合宿で外でシヴァのプジャを受けたときもすごい風が吹いて火が何度も消えたりしました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>風といえば昔、カレスワール・スワミの寺院で灰をかけられるプジャを受けている最中から雨が降り、そのあと灰だらけで外に出て雨で灰を洗い流したあと雨は止み、背中から雷鳴がゴロゴロとしたので振り向いたら「ババがよろこんでいる」とスワミが言っていました。</p>
<p>寺院のある地方とその季節はまず雨が降らないそうで、プジャ中に風が真横に寺院をグルグルかこむような雨風でした、洗い流したらきれいに晴れて、スワミが「着替えにいきなさい」と言われたので着替えにいったのを覚えています。</p>
<p>その旅の最終日は、小さい頃に毎日神社へ連れて行ってくれた曽祖父への感謝として太陽に最敬礼しました。<br /></p>]]>
        
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    <title>欲望へと変わる一線</title>
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    <published>2010-08-06T14:56:58Z</published>
    <updated>2010-08-06T15:23:52Z</updated>

    <summary><![CDATA[神のいない行為もまた、すべてに反映されます。 &nbsp; 例えばいくら文化的で...]]></summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>神のいない行為もまた、すべてに反映されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>例えばいくら文化的でも、そこに集中力があっても、楽しみがあっても、神がいなければそれはエゴの道具となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>すばらしいことをしているんだ、と。</p>
<p>自分たちが、自分たちの、自分たちこそ、と。</p>
<p>そしてそれを絶対とか正しいとか一番とか言い出します。</p>
<p>自分たちのルールが文化だと。</p>
<p>しかし宇宙にあるのは神のルールそれだけです。</p>
<p>それに反せばいずれは悲しみや苦しみとなります。&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そうした反映はありとあらゆるところに。</p>
<p>親切、ねぎらい、とにかく全部です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>食べ物、料理に至るまで。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こだわりは、よく持ち上げられます。</p>
<p>しかしこだわりと、奉仕の違いがあるとするなら、そのライン、越えてはならない一線、純粋な創造が欲望へと変わる偽善、それがあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>文化だって神が与えたものです。</p>
<p>例えば食文化です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>文化的な食べ方は、下手すればただの贅沢になります。</p>
<p>それが文化的だからと、それが質素だと、そうして押し付ける。</p>
<p>それは他人の足を引っ張るような、蛇足な、ただただ果てしなく最低に下らない贅沢です。</p>
<p>欲望を満たすためなのか、美しい食事をして心が感動に満ちるのか。</p>
<p>どんなものもありがたく食べるというのは、ひとまずここでは別の話とします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>エゴを満たすために食べるのなら、それは食文化とは言えません。</p>
<p>いくらそれがすばらしく調和がとれていて美しく良心的で、または質素であったとしても、そんなものは見た目だけです。</p>
<p>&nbsp;あのヒトラーもベジタリアンでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ジャイナの寺院でお昼ご飯を食べるのですが、そこで働く人たちはみな無料奉仕です。</p>
<p>どこのインド食堂で食べるより僕は好きです。</p>
<p>味が好みなのと奥さんが作る料理と味が似てるからというのもあります（笑）。</p>
<p>なんというか、もちろんどのインド食堂も神を信じてる人たちが作ってくれたものですが、ほんとに熱意ある奉仕のもと作られたものは、神様が作ったのと同じ味だからかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>または嫌々でもいいんです、そこにエゴがなければ。</p>
<p>疲れていて、眠くて、嫌々でも、しかしそこにエゴがなければ。</p>
<p>そのことを神が祝福します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>嬉々として苦しみを喜びとしていてもそれがエゴから来るものなら神はそこにありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>人々が文化を神の恩寵としてつむぐなら、それもまた神の味です。</p>
<p>それを忘れたら、へんな選民思想にとりつかれます、その文化にもう神の味はないように思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>人を喜ばせようと、人に奉仕することは神に奉仕することです。</p>
<p>好き嫌いがあるなら、無理せず好きなものを食べられたら、そこには楽しみがあります。</p>
<p>でもその、人と見ているものが何なのかです、そこもきちんとしてないと違ったことになっていくと言えます。</p>]]>
        
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    <title>満足とはなにか</title>
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    <id>tag:www.atmahut.com,2010://15.237</id>

    <published>2010-08-03T14:14:06Z</published>
    <updated>2010-08-10T05:34:55Z</updated>

    <summary><![CDATA[１日の夜にインドから帰国しまして、明日から仕事です。 &nbsp; 今回は大きく...]]></summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[<p>１日の夜にインドから帰国しまして、明日から仕事です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今回は大きくわけて４つのメインがありました。</p>
<p>瞑想者なら一度はお会いしたいシャンカラチャリア、</p>
<p>ラマナ・マハリシがいたアルナーチャラ山とそのふもとにあるシヴァの寺院、</p>
<p>女性聖者マタジとのバスの旅および個別セッション、</p>
<p>ジャイナ教白衣派のトップのアーチャリアにお会いして祝福を受けるすることです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ほかにもサラスワティとラクシュミを両目に持つカーマクシーという神様の寺院に行きました。</p>
<p>いつもはすごく混雑するそうで、特に今回は大きな祭りのある時期だったのですが、なぜかガラガラな日に行けて、僕たちのグループは真ん前に座らせてもらえてずーっと参拝することができました。</p>
<p>そういう流れに乗ることができて、ご縁に感謝です。</p>
<p>カーマクシーはなんというかとてもチャーミングな感じが強烈で、猫好きの無邪気なお姉さんに、猫のようにかわいがられているような気がしました（笑）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>マタジとのバスの旅は、聖者とバスで旅ができてホテルで食事も一緒にできて、でも堅苦しくなく接してくれるし、とてもすばらしい旅でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>あと今回、僕が思うに一貫していたのは、満足についてです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>シャンカラチャリアは笑顔の絶えないかたで、写真はこちらも誘われるくらい笑っています。</p>
<p>ラマナ・マハリシも無言の微笑みを浮かべていたかたです。</p>
<p>すべてを捨てる、すべてが幻想であると知る、というと普通は孤独や悲しみを連想します。</p>
<p>でもあの笑顔はなんなんでしょう？</p>
<p>ほかの参加者のかたたちと、マタジと旅を共にさせていただいて、そこにはいつも平安がありました。</p>
<p>アーチャリアは満足について話をされていました、カーストがあっても昔は誰も不平不満を言わなかったと。</p>
<p>バスガイドのかたの話でも、インドではカーストの異なる者同士の結婚に強い抵抗感があり、トラブルや戦い、下手すれば命を落とすこともあるそうです。</p>
<p>結婚した二人はカーストに不平不満を言わず結婚せずに別れればよかったのか？</p>
<p>その二人はカーストへの不平不満から結婚したかったのでしょうか？</p>
<p>周囲は、二人の結婚をどうして不平不満に思うのでしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>すべては役割であり、またすべては変化します。</p>
<p>神のはからいについて、赦しがそこになければ、それを自ら欲すれば、いつも人は不平不満です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それはそれとして、僕は瞑想者です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>シャンカラチャリアが僕たちのそばにこられて「瞑想しなさい」と瞑想のポーズをされたとき、たとえば僕はそのまま瞑想しました。</p>
<p>でもそれはどういうことなんでしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>アルナーチャラ山の近くのホテルについたときから僕は言葉が出なくなりました。</p>
<p>感動で胸が詰まったとかではなく、何か話そうとしてもなかなか話せませんでした。</p>
<p>いつも無口なんですが、それ以上に（笑）。</p>
<p>その地について足をつけたときから下からつきぬける強烈な静寂のエネルギーがそこにありました。</p>
<p>シヴァそのものであるその山のまわりに言葉はいらないのかもしれません。</p>
<p>ラマナ・マハリシはそこにあるシヴァの寺院を目指し、そのままそこのアルナーチャラ山に十年以上もとどまりました。</p>
<p>その地についてから僕は師がいうとおり「自分は誰か」をずっと無言で問い続けました。</p>
<p>ラマナ・マハリシがしたように、ホテルにいるときも、アルナーチャラ山を登るときも。</p>
<p>そして山の上部にあるラマナ・マハリシがいたという場所で瞑想しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ホテルに戻り瞑想しているときも、強烈な静寂がそこにあり、認識していました。</p>
<p>強烈な静寂がそこにある、と。</p>
<p>でもそれはもう沢山だと思いました。</p>
<p>静寂がそこにある、それはもういいから、その先に行かせてくださいとお願いしました。</p>
<p>するとエネルギーが入ってくるメインである第三の目や喉や胸や後頭部やすべてから滝のようにエネルギーが流れ込んできました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして認識したのは静寂ではなく、祈りを唱えていたり、寺院で祝福を受けるときに感じる、あの偏在の神のエネルギーでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>流れ込んでくると感じるのは、そこに抵抗があるからで、実際は何かが流れ込んできているわけではなく、その抵抗を手放しているんだと言えます。</p>
<p>洗い流される、それに抵抗しない。</p>
<p>ですから、ああすごいエネルギーだと認識しているなら、それは抵抗です。</p>
<p>ただそのままであろうとすべてを手放す。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>自分は誰か？</p>
<p>それは静寂を認識する意識ではなく、静寂そのものであると言えます。</p>
<p>そしてそこから認識するのは静寂が有形となっていく流れ、神であると。</p>
<p>神を知り、認識する、その静寂が自分であると。</p>
<p>それは絶対的であり二つとなく一つで、この相対的な世界には存在しません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ヴェーダは不二一元論、ジャイナは二元論で、対立していると学者は言います。</p>
<p>でも実際にジャイナの寺院へ行けば、そしてアーチャリアを見ればそんなことはないとわかります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ヴェーダの伝統で学ぶ瞑想でも根幹はこの有限の世界ではなく静寂です。</p>
<p>もし真理は一つだと言い切ればそれは不二一元ではなくなります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これが真理を言うことができない、多くの角度から表すことができます。</p>
<p>もしこの有限の世界の二元性を真理だとすれば、それは二元論ではなくなります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>となればそこに対立など本来はありません、同じことです。</p>
<p>そこに本当の自分、自分とは誰か、それががある、そんなテーマがあったように思いました。</p>
<p>それを失えば不満が生まれます、そして彼らが対立していたにすぎないと言えます。</p>
<p>たとえば学び手である学者が結論を急ぎ、こうではない、こうである、と争うのはそこに何かしらの幻想があるからであると。</p>
<p>そしてそれを打ち破るために色んな聖者が様々な角度を見せてくれているのではないかと思いながら、帰国しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>帰ってきてすることといえば、僕は最近は仕事で変化を余儀なくされているので、それらを現実的にやっていくことです。</p>
<p>別に特別なことはなく、すでに日々を生きることが特別です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>よく言われていることです。</p>
<p>たしかにそうです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし本当に生きているのか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>たとえば急に病気が治るのは、なのも聖者の祝福や奇跡以外にも話はあります。</p>
<p>病院で寝たきりの人がいきなり意識を取り戻したとか。</p>
<p>何かを終えて、その時期が来た、そういう言い方をするとします。</p>
<p>それが本来の流れ、本当に生きている状態であるとします。</p>
<p>そしてそれを失っていれば、すべて自分の力でやろうとします。</p>
<p>そうしたことが起こらない段階で、その状態で延々と生きようとします。</p>
<p>だから奇跡なんてないと、しかしそれを手放せば、次が来ます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それに驚いて、自分の力という狭い世界を超えたことを見たから、奇跡だと呼ぶだけかもしれません。</p>
<p>大人が自動車を運転するのを見て子供は奇跡のように思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>奇跡的に病を治す聖者は、誰でも治すわけではないといいます。</p>
<p>「あなたはまだ時期が来てないから治せません」と突っ返す例は多くの聖者に共通する例です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>本当に今を、自分の宿命を生きているか。</p>
<p>忘れてはいないか。</p>
<p>その闇を払拭するのは面白味があります。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>偽善でもやらないよりマシ？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.atmahut.com/2010/07/23225655.php" />
    <id>tag:www.atmahut.com,2010://15.232</id>

    <published>2010-07-23T13:56:55Z</published>
    <updated>2010-07-23T14:44:33Z</updated>

    <summary><![CDATA[どうして聖者に会うのか？ そもそも聖者は何者なんでしょうか？ &nbsp; 人を...]]></summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[<p>どうして聖者に会うのか？</p>
<p>そもそも聖者は何者なんでしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>人を集めて愛を説き奉仕の実践を説く人たちは大勢います。</p>
<p>カリスマや名声、人々を集めて引っ張る力で喜びを与える何かがそこにあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一見は善ですが？</p>
<p>偽善というのは見分けにくいです、彼ら自身がまず自分自身を見分けられないとも言えるかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>偽善というのは、何が善かを知らない、わからない、見えない状態で成すことです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>神は上から来ると言います。</p>
<p>上から言われているような気がするなら、それは神が上にいるからです。</p>
<p>でもそれを言う人が上ではありません。</p>
<p>それを自分が言っている、自分の力で、自分がしている、というのならそこに神はありません。</p>
<p>それはもう強制です、エゴが介入します。</p>
<p>「こうしたい」という。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もちろん人を癒したいというのもエゴです。</p>
<p>しかしそれがエゴであると知ることで、そのエゴ自体が光に当てられて焼かれて灰になります。</p>
<p>あとはただ、やってくるカルマを果たす。</p>
<p>すでにそれは盲目的ではありません、繰り返すのではなく果たすんです、そこに違いがあります。</p>
<p>終わらせる。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>癒しとは終わらせることでもあります、開放とか放電とかの言い方もできます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>無理にでも人を癒したいというのはもう権利欲であり力への渇望です。</p>
<p>人を癒すことがしたくてしょうがないなら、本当にそれを治すことなく、繰り返せばいいだけです。</p>
<p>もうそれは癒しではありません、支配です。</p>
<p>そしてそこにはまずその支配者となろうとする人自身が繰り返している何か、真に癒されなくてはならない何かが隠れています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>静寂、平安、幸せ、それらは仮面でしかないという現実がそこにあります。</p>
<p>カラ元気。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>見分けるのにまず第一だと僕が思うのは、その人が真理を知ろうとして体現しようとしているかです。</p>
<p>その過程にある闇を通り抜ける覚悟を決めて、実際にそれを実践し、光を勝ち取ったかどうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まず基本的な闇として、この肉体は自分ではありません、個我意識、それらによる一時的な繋がり。</p>
<p>しかし、その内にある愛が永遠なのだから愛を説けばそこに真理がある。</p>
<p>では、そう言うとき結局は肉体的な、または自分の経験や人間関係といった今回限りの限られた形にこだわってはいないか？</p>
<p>しかし、それら自体は流動的ですし、無くなることはない。</p>
<p>では、その関係性をいつまでも同じものにしておきたいというエゴがそこに隠れていないか？</p>
<p>そしてそれを握っている、自覚がない、眠って、忘れてしまっている。</p>
<p>起きていて覚えてないのではなく、眠っていて忘れている。</p>
<p>やってしまった宿題はもう忘れます、覚えていません。</p>
<p>しかし忘れた宿題は、最後に、やらないといけなくなります。</p>
<p>なんせ神からの宿題は踏み倒せません、それがあるから人生を与えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この肉体そして人間関係そして生まれてきたことのすべてがありがたい恩寵です。</p>
<p>では、どういった恩寵なのか？</p>
<p>何のために？</p>
<p>真理は？</p>
<p>いったい何が起こっているのか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>幸せは外側にありません、いくら欲望を満たしてもきりがありません。</p>
<p>そこに巻き込まれる人々もトラップされます。</p>
<p>結局それは何かを奪うことになります、なんらかの強制です。</p>
<p>それをさせることによってエゴを満足させる、そのかわり一時の幸せと平安を与える。</p>
<p>ですがそれでも一時の幸せと平安を何度も繰り返すことで、悲しみや苦しみに漬かっていた状態から抜け出すことができます。</p>
<p>でも、その先は？</p>
<p>エゴは、そして欲望は満足することがありません。</p>
<p>いずれはその一時の幸せと平安は、静寂を失います、静寂を奪う脅しになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それが隠れているとき、上から来ている、崇高である、すばらしいもので、幸せに導くと言われているものの裏にはトラップがあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>奉仕の人に会うたびにわれわれは何かを感じます、それは奉仕の人が持つ平安と静寂です。</p>
<p>そこに安らぎをなぜだか感じます。</p>
<p>そこに真の癒しが実践されていて光があり、何も隠れていないからです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>密室で隠れて集い約束どおりのルーチンを果たして安堵するゲームとはまったく異なります。</p>
<p>それは眠らされているだけです、なんらかのエゴの欲望のために支配されている。</p>
<p>偽善でも、やらないよりはマシだ、偽善おおいに結構、どんどんやるべし、と。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>であればまずそれを自分自身にたいしてぶつけ、その隠れている何かにそれが通用するかをチェックすることだと僕は思います。</p>
<p>しかし何が隠れているのか？</p>
<p>そこに光を与えるのが神聖な縁なり叡智です。</p>
<p>それができるのは？</p>
<p>それを自分でやれているという過信を打ち破ることです。</p>
<p>そうしたことに目を向けずともいい、という甘えを。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>別に、そういうことに興味がないのであれば、面白おかしくしていればいいだけです。</p>
<p>しかし癒しとなると、善となると、愛となると、真理となると、そうした半端は通用しません。</p>
<p>もしそうしたことを真剣に探求するのではれば、通らなくてはならない試練がたくさんあります。</p>
<p>その関門を通過させまいとする誘惑やネガティブがたくさん待ち受けています。</p>
<p>そしてそれを打ち破るたび、大いなる癒しとは何かを知ります、自分の未熟さも。</p>
<p>そのたび、それを通すだけの素質を備えることになれば、本当の意味でそれを淡々と周囲に還元するだけです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこにはいつも静寂と平安があってこそです、安らぎの喜び。</p>
<p>お祭り騒ぎのあとにそれを取り戻せる人は幸いです、そしてそのお手伝いができればと思っています。</p>
<p>瞑想をして自分の静寂と平安のもと日々を生きるだけでも周囲にそれを与えることができます。</p>
<p>それにはその静寂がすぐに世界のネガティブや騒がしさを吸収しないよう、形をもってそう生きることです。</p>
<p>それが神々との繋がりであり、信仰です。</p>
<p>その日々はいつも平安で、いくら周囲が人ごみの濁流だとしても関係ありません。</p>
<p>そしてその姿は飛びぬけて象徴的であり、神聖な建造物のように安らぎを感じさせます。</p>
<p>一時の幸せのメリーゴーランドではありません。</p>
<p>もちろんあれも幸せで癒されますが、あれがすべてではありませんし、立ち返る場所でもありません。</p>
<p>そうしたことを楽しむには、いつも静寂の守護があってこそわれわれは平安でいられます、無事です。</p>
<p>それこそ大いに結構、楽しむべし、です。</p>
<p>眠らされて忘れないようにするのが大事です。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

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    <title>まあるいエネルギー</title>
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    <id>tag:www.atmahut.com,2010://15.231</id>

    <published>2010-07-21T14:30:28Z</published>
    <updated>2010-07-21T15:26:32Z</updated>

    <summary>今はなかなか良いVAASTUの環境で暮らす日々です。 別の場所と比べると、魂の平...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[<p>今はなかなか良いVAASTUの環境で暮らす日々です。</p>
<p>別の場所と比べると、魂の平安やそれを育む気づきが運ばれてくるような、神のサポートを感じます。</p>
<p>スムーズで、滞りがありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>インド占星術で惑星の悪影響を緩和するナバグラハというプジャ（儀式）を受けるときも同様の感覚があります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>どちらも自分が丸く球体に収まるような、謙虚な気持ちになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>球体、丸はバランスがとれています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>VAASTUでも円形の囲いの建物は良いとされています。</p>
<p>ですが基本は正方形で、四分割しますし、出入り口の決まりも変わりません。</p>
<p>傾斜の法則もあります、敷地については円形にすべしと言われてはいません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>人によっては丸や球体と感じず、一本のハイウェイがそこにあると感じるかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>たとえば良いVAASTUを手に入れたらスピリチュアリティをスタートさせることが大切だと言われています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>スピリチュアリティにおいて自分のマインドの癖を浄化したりいろいろします。</p>
<p>自分が丸や球体と思ってた状態が実はまったくそうではないかもしれません、感じ方はまだまだ未熟です。</p>
<p>この肉体がある限りカルマの影響は死ぬまで続きます。</p>
<p>丸や球体やと、それにこだわること自体がカルマだと言うことができます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>丸いといえば魚の卵は丸いです。</p>
<p>そこから出てきてからがスタートです。</p>
<p>地球は実際は球体ではなく、少しつぶれた形をしています。</p>
<p>ただ、そんな表面的な話は実は少しどうでもいいことです、遊びです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして体験について色々書くことは堂々巡りで、きりがありません。</p>
<p>そこから出てくる、それらの一時の夢から目をさます。</p>
<p>立ち返る。</p>
<p>どこに？</p>
<p>すべてを手放した静寂にある平安に。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>無双であり絶対である真理に形はありません、この表現は理にかなっているはずです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>瞑想で立ち返るとき、そこへ立ち返ることを育んでいきます。</p>
<p>本来の状態でいられる守護の土台を育みます。</p>
<p>静寂のシヴァは魂を守護します。&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>大切なことは、答えの形にこだわることではなく、実践することです。</p>
<p>もちろん神聖な叡智として残された形は道しるべです。</p>
<p>ですが横を通り過ぎて、次に進まないと道しるべは役に立ちません。</p>
<p>それは道しるべではないかもしれません、その横にたまたまあった犬のフンかもしれません。</p>
<p>それを探し続けていったら山で遭難するかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>我々が「こうしていけば」と思っていることは本当に幼く遅々たるものです。</p>
<p>そこから先にあることを受け取る、育まれる、それを吸収する、それを神々から受け取り実践する。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それは呼吸と同じです。</p>
<p>呼吸は自分の力ではできません。</p>
<p>自分で肺をモミモミできますか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>様々な呼吸のしかたがあります。</p>
<p>それは一見コントロールに見えますが、実際はそこに自分の感情や癖が影響を与えていることを自覚して、その影響から自由になり本来の状態へと戻るためにあります。</p>
<p>そしてそれは、与えられるものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>与えられた本来の状態でいるときの呼吸は一人一人違います。</p>
<p>瞑想で静寂にいるときも、たとえば僕の師のものと、僕のものとでは、違います。</p>
<p>そして呼吸のしかたをそろえても、そこで学び受け取るものを逆に邪魔することになると教わります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>例外的に呼吸のしかたを学ぶこともあります、しかしそれは一時的な側面としてのものです。&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>別の話をしますと、インド占星術では一人一人、違った惑星のマントラを処方されます。</p>
<p>ほかにも、この時期はこれをするように、というものもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もっとたくさんいろんなことがあります。</p>
<p>でもまずは一つずつです、そして基本はまず瞑想です。</p>
<p>いかなる処方箋があろうとも、第一の処方箋はまず瞑想することです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>風船のようにまあるく膨らんだエゴは、その張り詰めた弾力が邪魔ですし、いつ大きな音を立てて割れて赤子を泣かすかわかりません。</p>]]>
        
    </content>
</entry>

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    <title>正しいか間違いか</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.atmahut.com/2010/07/09193657.php" />
    <id>tag:www.atmahut.com,2010://15.230</id>

    <published>2010-07-09T10:36:57Z</published>
    <updated>2010-07-09T11:42:43Z</updated>

    <summary>自分の行いに正しいも間違いもありません。自分そのものがに正しいかどうかです。正し...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[<div>自分の行いに正しいも間違いもありません。</div><div>自分そのものがに正しいかどうかです。</div><div><br /></div><div>正しいとは、自分の本質です。</div><div>それは真理であり魂であり神です。</div><div>それは静寂です。</div><div><br /></div><div>何かについて正しいか間違いかを考えることをやめることです。</div><div>言うなればそれは、何かを追いかけたり握ったりしてそれを自分の本質だと勘違いしないことです。</div><div><br /></div><div>それをどこまで高められるかという誠意と努力と探求と向上心。</div><div><br /></div><div>欲望に振り回されていないか？</div><div>独りよがりのエゴイスティックな自己満足で頑固になっていないか？</div><div><br /></div><div>静寂があり、神そして魂、そして真理があるなら、どんな行いも赦されます。</div><div><div>全ての行いが巡り巡って何かの反動をもたらします。</div><div>自分がまず世界を赦すなら、自分のどんな行いも赦されます。</div></div><div><br /></div><div>行いそのものが赦しだと言うことができます。</div><div>どの行いが赦されて赦されない、ではありません。</div><div>ですから、この行いこそが、と気に入らないことです。</div><div>赦しとは、エゴや欲望に言い訳や免罪符を与える理由にはなりません。</div><div>そこに赦しはありません。</div><div>赦さない心があるとき、それは行いではありません。</div><div>赦しの行き場を失わせ、どこへも行かせないという摩擦が蓄積され、さらに新たな行いの種を生み出します。</div><div><br /></div><div>つまり神が行わせるのであって、我々が自分から行うのではありません。</div><div>自分で行っている、自分でやっている、というときの「自分」とは摩擦であり、それがカルマやエゴやマインドの癖といったものだと言えます。</div><div><br /></div><div>行いは、来ては去るものです、それを行う事になる縁があった。</div><div>それを赦す、受け入れ、尽くし、手放す。</div><div>握るでもなく、拒絶するでもない。</div><div><br /></div><div>そうあろうとするとき、静寂を知る必要があります。</div><div>肉体も自我も性格も、この物質的な世界の有限なことの全てが、自分ではありません。</div><div><br /></div><div>もちろんそれらは、静寂を知るという絶大なチャンスのために与えられた船です。</div><div>創造の母は偉大であり、全ての創造は丁重に、おろそかにせず敬意をもって接するものです。</div><div><br /></div><div>しかしそれは全ての創造の内なる静寂に対するものです。</div><div>見た目に振り回されてしまえばそれは執着でありエゴになります。</div><div>愛をもって見つめる目とは違い、渇望の血眼となります。</div><div><br /></div><div>静寂にあるとき我々は、マインドに振り回されて夢に眠ることはありません。</div><div>いつも目覚め、気づいています。</div><div>そのことに尽くし、いつでも手放していて、離れていて、それが来ては去るのを見届けます。</div><div>もし何かを握ろうとエゴやマインドが働く瞬間、拒絶する瞬間、それに気づくことができます。</div><div>もし静寂がなければ知らないうちに眠らされてしまいます。</div><div><br /></div><div>この静寂から遠くと遠く、ほんとうに想像のはるか遠く及ばないレベルまで遠く離れているのがこの現代、神を忘れた時代「カリユガ」です。</div><div>エゴやマインドの小さな箱庭世界でどれだけ考えても想像力を働かせても、それを再び知ることも取り戻すこともできません。</div><div>手放し続ける、ただ静寂そのものに触れ続ける、その物量作戦だけが近づかせてくれます。</div><div><br /></div><div>どんな聖者も瞑想します。</div><div>瞑想とは方法や学びやテクニックではありません。</div><div>真理に触れているときの姿です、本当の自分を体現しているときの姿です。</div><div><br /></div><div>そしていつもそこへ近づける、神に近づくのも、マスターに近づくのも、そのためと言えるかもしれません。</div><div>そして神やマスターとの関係性に自我を持ち込まなければ、それを我がものにしようという欲に打ち勝てば、静寂を勝ち取れるとは言えないでしょうか？</div><div>何故なら神やマスターこそは強力なパワーです。</div><div><br /></div><div>でもそのパワーは我々を歩ませる土台であり道にすぎません。</div><div>その道でレースゲームに夢中なら自分にも他人にも迷惑をかけます。</div><div>そのパワーに溺れることから自由になり、ほんとうの自分として全うできるよう歩み続けるには、その道の歩き方を学ぶことが大切だと思います。</div><div><br /></div><div>例えば「我こそは何々の弟子であり、何々の直系である」と言うとき、そこに潜む虚栄心に注意が必要です。</div><div>誰の弟子であるとか、あの聖者に会ったことがあるとか、そのこと自体はあまり霊性には関係ないのではと思います。</div><div>たんなるネームバリューです。</div><div>しかしそれでも神やマスターはこちらを見ていますし、それだけで祝福があるにしても、弟子とかとかいう話はまた別だと言えます。</div><div><br /></div><div>例えば、どこを見られてたんでしょうか？</div><div>いい服着てるなー、ですか？</div><div><br /></div><div>あるとき、何かに気づく。</div><div><br /></div><div>どうして神やマスター、師といった存在があるのか？</div><div>例えば瞑想そのものは縁ではありませんが、瞑想をすることが縁です。</div><div>縁のもと、神やマスターに近づけます、人間性とはその縁であるとも言えます。</div><div><br /></div><div>この縁を無駄にしない。</div><div><div>赦し、本当の幸福と喜びは何であるかを探り、分かち合おうとする、何一つ無駄はありません。</div></div><div>ですがその無駄のなさを忘れているとき、我々は不必要に自分をおかしな状態にし続け、または傷つけますから、トリッキーです。</div><div>無駄の無さを欠かすなら、それは無駄です（笑）。</div><div><br /></div><div>自分が正しいかです。</div><div>本当の自分。</div><div>それは自分の行いが正しいかどうかではありません。</div><div>名前も姿も形も主義も主張も考えも肉体も全て、正しいも間違いもありません、全て幻想です。</div><div>しかし母の乳飲み子としての姿であり、見る全てもまたその母です。</div><div>全ては神です。</div><div><br /></div><div>しかしその神にすら土台があります、それが静寂です。</div><div>土台のない家は崩れます、または別なものかもしれません。</div><div>愛と執着を勘違いする人のそれは、静寂ではなく欲望ゆえです。</div>]]>
        
    </content>
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    <title>７月２５日から８月３日までお休み</title>
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    <published>2010-07-06T09:11:22Z</published>
    <updated>2010-07-06T09:21:53Z</updated>

    <summary>またインド行きます（笑）。こんどは、シャンカリチャリアにお会いできるツアーになる...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[またインド行きます（笑）。<div>こんどは、シャンカリチャリアにお会いできるツアーになるので、もう今年はインド行くまいと思いましたが、行くことにしました。</div><div><br /></div><div>実際は８月１日の夜に帰ってくるのですが、色々あって８月３日までお休みをいただきます。</div>]]>
        
    </content>
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    <title>全てのはざまにいる</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.atmahut.com/2010/06/10190823.php" />
    <id>tag:www.atmahut.com,2010://15.213</id>

    <published>2010-06-10T10:08:23Z</published>
    <updated>2010-06-25T11:25:01Z</updated>

    <summary>物が欲しい、お金が欲しい、モテたい、これらは欲です。美しい形にしたい、神聖なもの...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[物が欲しい、お金が欲しい、モテたい、これらは欲です。<div>美しい形にしたい、神聖なものを求めたい、これらも欲です。</div><div>良くしたい、こうしたい・・・というのがエゴです。</div><div><br /></div><div>自分であろうと他人であろうと、思った通りにしたい、という。</div><div>ほとんどの場合、人はそのために動きます。</div><div><br /></div><div>しかし神がさせたいとおりに動くことが一番です。</div><div>強いて何がベストかと言うなら、そうなります。</div><div><br /></div><div>でもそれは理想です、簡単にはいきません。</div><div>しかし全てはそれをできるまでの途中、その過程です。</div><div>それもまた神がさせたいとおりと言えます。</div><div><br /></div><div><div>だからいつも謙虚で、「こういうものだ」と決めつけないことが大切になります。</div><div><br /></div></div><div>「自分がそれをしている」とすれば、それは途中で止まってしまいます。</div><div>かといって「これは神がしている」というなら自分はその通り道になれるほど成長できているんでしょうか？</div><div><br /></div><div>神のことをうたいながら人を傷つける人たちは沢山います。</div><div>神の名をかたり私利私欲をこやす人たちも沢山います。</div><div>神さえもが欲の道具となります。</div><div><br /></div><div>この幻想の世界を見て、何を握っても、それは欲の道具です。</div><div>これを手にしたから自分は大丈夫だと言えるものは一つもありません。</div><div><br /></div><div>自分が大丈夫、なんてことはありません。</div><div>自分などそもそもありません。</div><div>はどうして自分は今もこうして存在しているとされるのか。</div><div>何故それでもこの宇宙はこのように見せつけるのか。</div><div><br /></div><div>わかりませんけど、しかし究極的にはその流れに沿えることがベストだと言うことができます。</div><div><br /></div><div>自分に多くの問題があるのは確かです。</div><div>しかしそれもまた自分ではありません。</div><div>それは過去からやってきては去るものばかりです。</div><div>次に何が来るのかは、自分の行い次第です。</div><div><br /></div><div>自分にはこういう癖がある、そうかもしれません。</div><div>自分はこういう癖なのだ、いいえそうではありません。</div><div><br /></div><div>それらに気づいた時点で、それは自分ではありません。</div><div>気づく意識が本当の自分です。</div><div><br /></div><div><div>木にやる水が多すぎても少なすぎても、養分がありすぎても、腐ってしまいます。</div><div>常にそうしたことに気づき、謙虚に、そして誠実であろうと努力する。</div><div>自分は良いことをしているという自負があるなら、その裏に隠れようとするエゴや私利私欲がないかと。</div><div>そしてそれをどこまで手放せるか、もちろん我々は未熟です、でも努力はできます。</div><div>そういう努力が必要です、でなければ全ては裏を返せば隠された私利私欲のための行いです。</div><div><br /></div><div>そういう偽善、噓がそこにあります。</div><div>意地悪すぎる視点でしょうか？</div><div>しかし善をうたい、善をただ行っているのだ、としながらもどこかエゴイスティックで強権的な人々を見て、腑に落ちない何かを感じたことは？</div><div>ありませんか？</div><div>それは気のせいでしょうか？</div><div><br /></div><div>もしそのことを深く気づき、本当の善を求めるなら、まず自分自身について実践する、それからです。</div><div>その歩みの日々を与えてもらえたのは何より有り難い事実です。</div><div><br /></div><div>だから生かされているんだと言えます。</div><div>そして神は祝福します、神と言わずとも、ただ祝福されています。</div><div><br /></div><div>別にあえて神という言葉を使わずとも。</div><div>例えば僕は、誰かの魂について考える時、その人のために何ができるかを考えるなら、瞑想と神といったこと以外のことをまず考えます。</div><div><br /></div><div>何故なら道は人それぞれですし、瞑想や神への祈りをしない人もします。</div><div>それでもその人には何かしらの道があるんです。</div><div>ではそのなかでその人の魂のために何が働いていて、そこには何が待っているのか？</div><div>そしてその人に出会う自分は何ができるのか？</div><div>自分がしていることが何であって、それをどう使えるかなど考えません。</div><div>もしそれを神が動かすのなら、そういう縁があるならそのときは全力です。</div><div>そしてその方法には固執しません、ベストな方法をとるだけです。</div><div>ういう形でなければならないということなど一つもありません。</div><div>自分のしていることがベストだという考えを捨てれば、神がベストをさせてくれます。</div><div><br /></div><div>でも僕にできることは小さなことばかりです。</div><div>それが大きくなればと願いますし、かといって力を欲しがることもしません。</div><div><br /></div><div>人が何かを握るとき、神も含めて全てが大きな欲になることもあります。</div><div>この宇宙という偉大な創造、この幻想そのものがいつでもそういう牙を剥きます。</div><div>そうでない形で創造がなされていくには？</div><div>その全てのはざまには何があるのか？</div><div>小さく少しずつでもいいからそこへ近づけるように努力できるには、どうあれば？</div><div>それが僕の感心です、それすらもが度を過ぎれば欲に変わります。</div><div>独りよがりの夢で終わります、一時は夢が形になろうと、ただ不毛に何も残らず消えるだけ。</div><div><br /></div><div>全てのはざまにいるとき、全てはとどこおりなく流れていくといえます。</div><div>そこに摩擦も渦も生じずに、その創造は本当の意味でより美しい方向へと変わっていくと言えるかもしれません。</div><div><br /></div><div>だから、徳ある行為をしているんだという慢心はとくに一番気をつけたいと思います。</div><div>そんなこと、できているとも思いません。</div><div>仮にそれに近いことを少しできているにしてもそれは魂がそれまで培って来たことの延長線上にすぎません、僕じゃありません。</div><div>しかしそのために生かされている時、魂からの本当の自分を生きている平安がそこにあると言えます。</div></div>]]>
        
    </content>
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    <title>みな神の子</title>
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    <published>2010-06-02T23:37:02Z</published>
    <updated>2010-06-25T11:25:01Z</updated>

    <summary>あなたが子供に厳しくしたいなら、まずあなたが神の厳しさを受け入れてください。  ...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[あなたが子供に厳しくしたいなら、まずあなたが神の厳しさを受け入れてください。 
<div>あなたが子供を叱りたいなら、まずあなたが神から叱ってもらってください。</div>
<div><br /></div>
<div>鳥はヒナを叱りつけて厳しく当たりますか？</div>
<div>鳥はどのようにして自然界で生きるのかヒナに手本を見せています。</div>
<div>鳥は風にもなれず、岩にもなれません。</div>
<div>我々だって同じです。</div>
<div><br /></div>
<div>でも人だけが叱りつけ、厳しく当たります。</div>
<div>魂が神を知ろうとすることができる、人だけの特別な意識がそこにあります。</div>
<div>魂と神のために叱り、厳しく当たるんです。</div>
<div>ですから、それををまず自分が受け取らずにいれば、でなければそこに必ずあなたの感情やエゴが介入します。</div>
<div><br /></div>
<div>どんなに美辞麗句そして正義と真理と愛の言葉と行為だとしても。</div>
<div><br /></div>
<div>それが相手の魂そして自分自身の魂を傷つけます。</div>
<div>あなたもそうして繰り返し、子供にも繰り返させる。</div>
<div>それがあなたの「自分」を強く保たせている。</div>
<div>それら感情や執着や噓が愛なのではありません。</div>
<div>それらは神の生み出したものでもありません。</div>
<div><br /></div>
<div>
<div>神が生み出したものを謙虚に受け取らず、そして手放さないとき、そこに生まれるものです。</div>
<div><br /></div>
<div>「自分が」生み出すものです。</div></div>
<div>しかしそれもが自在なのが人の特別なところです。</div>
<div>どうしてなのか本気で知ろうとしてみてください。</div>
<div>本来それは我々は神そして真理を探求し、魂を成長させることができる縁にあるからです。</div>
<div>でなければ「自分が」と思うだけです。</div>
<div>実際、「自分が」生み出しているものなど一つもありません、それは幻想です。</div>
<div>ただそこから出てこようとしないエゴがあるだけです。</div>
<div><br /></div>
<div>全ては神のものです、我々も神の子であり、神の一部である魂が内側にあります。</div>
<div>それを求めるには静寂です、そして手放すことです。</div>
<div>いったんその、おかしなものを手放してみることです。</div>
<div>手放せないというのは噓です、手放すことを恐れているだけです。</div>
<div>手放しても去るなら去るし、去らないならそこに残ります、それから去ります。</div>
<div>それがそこに残る間、我々は善処するのみです。</div>
<div>そしてそれが「自分の姿」とか「自分でやること」とか「自分が」と思えば、それは去ることなく、手放さないままです。</div>
<div><br /></div>
<div>
<div>ですから一方だけ見て他を見ないとか「これこそが真理だ」と握らないことです。</div>
<div>これが正しいのだから、これが良いのだから、だから教えよう、とか。</div>
<div><br /></div>
<div>遺伝的に見たって、子供のほうが我々より進化した存在です。</div>
<div>魂のレベルも彼らのほうが上です。</div>
<div>その未来を持つ彼らに我々の何が「教える」のですか、馬鹿げてます。</div>
<div><br /></div>
<div>宝のように抱き上げて掲げるものです。</div>
<div>神が同じように我々に授けたものを讃える。</div>
<div>それは神がこの世界に、その子の魂のために授けたものです。</div>
<div><br /></div>
<div>しかし何よりもまず自分自身の魂に噓をついて無礼であってはなりません。</div>
<div>そして、その姿勢と努力の積み重ねだけが、今生での我々の成果であり、その姿が見せられるものです。</div>
<div>それを見せてくれる人たちを見て我々は学びます、神を忘れないでいることを。</div>
<div>神に対する姿勢を学びます。</div>
<div>進化とかレベルとか優劣は関係ありません。</div>
<div><br /></div>
<div>子供を産めるのは神の思し召しです、我々の力じゃありません。</div>
<div>我々が先祖や両親に感謝するのは、彼らが自分の力で産んだとかいうことではありません。</div>
<div>彼らが日々自分達のエゴを捨てて時間を惜しまず献身的に子孫を育ててきたということです。</div>
<div>ただ子供のためを思って、それだけです。</div>
<div>でもそれが自分のためという気持ちが少しでもあれば、自分が思う正しいこと良いことのためにと思うのであれば、それはエゴにすぎません。</div>
<div>しかしそうしたことが感謝だというのも時として疑わしいです、例えば、捨て子はどうなるんでしょうか？</div>
<div>それでも両親の存在があったからこそ今生にやってきた、そのこと自体に感謝するんです。</div>
<div>両親そして先祖、やがては本当の母であるこの宇宙の創造の母「マザーディヴァイン」に至る道のりにおいて、両親そして先祖に感謝して魂を浄化する一つのプロセスを伝える聖者が、とある段階の内容を実行するときの注釈として面白いことを言っています。</div>
<div>「これをするとき両親そして先祖に感謝しなさい、でも『感情をこめる必要はない』、あとはそれで動くから」と。</div>
<div>愛と感情は別です。</div>
<div>
<div>しかしそれで何かを失うかもしれないというのは、それが不確かであるゆえの不安です。</div></div>
<div>愛はあらゆる感情を受け止め、そして赦し、洗い流します。</div>
<div>感情は例えば小さなロウソクが消えないようにいつも不安で必死に自分の力で守り続けるようなものです。</div>
<div>そして愛とは太陽のようなものです、その片端ですら我々全てのロウソクを凌駕して含み包むものです、それは何万倍もの光です。</div>
<div>しかしいったん忘れると、簡単には取り戻せません。&nbsp;</div>
<div>小さな「自分の何々」というものしか見なくなるからです、それが全てだと信じて疑いません、でもそれはほんの小さな世界です。</div>
<div>&nbsp;</div>
<div>我々は古代から本当に神に対してお伺いを立ててきました。</div>
<div>でも今はそれをしません。</div>
<div><br /></div>
<div>刺激やテクノロジーだけがどれだけ進化しても、それが欲望やエゴがあってこそと言い訳しても、今の世界、現状、時代が素晴らしいと言えますか？</div>
<div>言い訳にはなりません。</div>
<div><br /></div>
<div>神を忘れれば思い出すためのフィードバックがまた創造されるだけです。</div>
<div><br /></div>
<div>きれいごとは通用しません。</div>
<div>&nbsp;</div>
<div>もしそれで愚かしいことをすることになったのなら、それすらも「自分で」していると思えば、繰り返すだけです。</div>
<div><br /></div>
<div>全ては与えられたもの、全ては神のものです。</div>
<div>そして神は好きなときに終わらせる、それだけです。</div>
<div>その間に本当にできることを努力するんです。</div>
<div>それは欲望やエゴに夢見て忘れることはできても、忘れれば虚しさがつのります。</div>
<div>どうして欲望にきりがないのか、これだけおかしなことが起きるのかです。</div>
<div>&nbsp;</div>
<div>しかし、どれだけ「自分が」を捨ててきたと自負しても、無意識下のエゴが残ります。</div>
<div>それはプライドや自分の感情を掻き立てる何かです、より根深いカルマそして先祖代々の癖です。</div>
<div>いつも最後に火を噴きます、なかなか逃れられません、とても硬い呪縛です。</div>
<div>そうしたレベルまで注意深くいることが不可欠になります、自力では大変に難しいです。</div>
<div>それを手放し浄化するのは本当にそこまで届くサポートがなくてはできません。</div>
<div>よほど魂の徳分があるか、やはりそれを引き出す一定のプロセスを知る人に出会うことも必要です。</div>
<div>それから神のサポートにゆだねるとき、大きな動きが生まれます、それを受け取る道ももちろんあります。</div></div>]]>
        
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    <title>満点になることはない</title>
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    <published>2010-05-31T23:22:55Z</published>
    <updated>2010-06-25T11:25:01Z</updated>

    <summary>インド占星術は、個人や組織や国家などの運命を見ることができるそうです。そして親子...</summary>
    <author>
        <name>yoheiniimi</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.atmahut.com/">
        <![CDATA[インド占星術は、個人や組織や国家などの運命を見ることができるそうです。<div>そして親子を鑑定すると、やはり引き継いでいる部分や、お互いが関わる出来事はお互いにそういう鑑定結果が見て取れるようです。</div><div><br /></div><div>VAASTUだと、そこを使う人や住む人を合わせた総合結果みたいな感じにもなります。</div><div>悪い部分が全員に影響するのか、誰か特定の人に影響するのか、色々です。</div><div>その人々が神を知らなければマンパワーだけを全てとし、お互いの癖をコピーしあったりしますから、結果的に共有することにもなり得ます。</div><div>実際にそうしたことが世の中では常識とされます。</div><div>もし、いくつも家がある人なら、寝泊まりする場所が影響するそうです。</div><div>それら複数の家を全て同じくらい使う人は、その中で最も自分にとっての拠点として意識している場所が影響するようです。</div><div><br /></div><div>VAASTUはカルマの現状だと言われています。</div><div>インド占星術とVAASTUは関わり合っているそうです、どちらもカルマの縮図みたいなところがあります。</div><div>そしてカルマの向こうも見えるガイドラインにもなると言えます、どちらも宇宙法則だからです。</div><div><br /></div><div>インド占星術では、鑑定結果に必ずどこか欠点があります。</div><div>なにを欠点とするかは人次第だから、多様な存在があふれるこの世界では当然だと思います。</div><div>例えば聖者の生活は、一般的な人たちにしてみれば面白くありません。</div><div>もしそんな生活をしなければならないなら、きっとそれが欠点であり不幸だと思うかもしれません。</div><div><br /></div><div><div>VAASTUでも、ほとんど100%というのはなかなか大変です。</div><div>色々あってその状況に巡り会わない限りはいつでも手に出来るものじゃないです。</div><div>手にしたところで、VAASTUを知らないなら自分の欲望で別な場所に行ったり、おかしな改築だってします。</div></div><div><br /></div><div>どちらの宇宙法則も、魂の歩みに沿ったものです。</div><div><br /></div><div>良いVAASTUは本当の平安や、それを得るまでのプロセスを本当にバックアップしてくれます。</div><div>洗い流してくれるし、矯正してくれます、はじめはそれにとまどいを感じても、逆に現状にとって変化は何事もとまどいを感じさせます。</div><div><br /></div><div>インド占星術ではプジャをして悪い惑星の影響を緩和できます。</div><div>VAASTUの影響も緩和するそうです、密接に関係しているとのことです。</div><div><br /></div><div>インド占星術とVAASTUのどっちがベストかと言われたら、僕はどっちもやれる範囲でやればいいと答えます。</div><div>片方だけというのは損ですし、ベストなのはまず自分自身を助け魂を歩かせて成長させることです、方法じゃありません。</div><div><br /></div><div>できる範囲で家具の配置を変えたりするだけでも、かなり変わります。</div><div>流れを少しでも良い方向へ持っていくことで、次につながります。</div><div>多少のお金はかけても、小さなリフォームだって、僕ならやります。</div><div>しかし、土地と建物を100%いじるのは大金がいります、立地だってそうそう良いものは見つかりません。</div><div><br /></div><div>インド占星術のプジャを受けられるなら受けておき、日々の歩みを助けてもらえば、かなり楽になります。</div><div>もちろんまず自分自身の運命を鑑定して、自分が抱えているカルマそして運命を知ることで、それを手放すことができますし、逃げずに対処する覚悟もできます。</div><div>VAASTUも同じく現状まで背負ってきた、または繰り返してきたカルマが見えてきます。</div><div><br /></div><div>そこには人間関係そして人だけが全てだというエゴが見え隠れします。</div><div><br /></div><div><div>良いVAASTUを手に入れたらスピリチュアリティをスタートさせなさいと、ある聖者は言います。</div><div><div>肉体がある限りはカルマの影響は受け続けます。</div><div>カルマに対する態度を知っているかどうかが鍵だと思います。</div><div>VAASTUは良い部分が悪い部分をカバーすることもあれば、その逆もあるそうです。</div><div><br /></div><div>魂の道を歩み続ける人は自動的に良いVAASTUを得ます。</div><div>そしてそのVAASTUだって100%じゃないし、インド占星術の鑑定だって何を持って100%とするのかです、良くも悪くも受け取れます。</div><div><br /></div><div>しかしその歩みは神が守護している、バックアップしている、そういう話は沢山あります。</div><div>大切なのはそこへ向かうことです。</div><div>欲せず奉仕を続ける人が川の流れのように財を手にします、そうでなければ戦い続けて勝ち取るのみです。</div><div><br /></div><div>そういう方向へどうやって近づけばいいのか、VAASTUもインド占星術もわかるけど、という人は、徳を積むことだと僕は思います。</div><div>カルマの法則では良いカルマは良い結果をもたらすからです。</div><div>悪いカルマは悪い方向へと落とされます。</div><div><br /></div><div>じゃあここで言う良いカルマ悪いカルマとは何か？</div><div>それは最終的に核のレベルまで、魂のレベルまで見てみないと分からないことです。</div><div>そこにある平安、静寂、本当に我々は何者で、どこへ向かうのか？</div><div>この創造はいったい何なのか？</div><div>その宇宙の流れに沿うようにする誠意が助けになると言えます。</div><div><br /></div><div>そしてその姿勢の土台は、瞑想が育んでくれます。</div><div>瞑想しているとき、それは本来の姿です。</div><div>もちろん体はとても休まり、色んなことが創造的にインスピレーションで行えたり、気づきが増えたりします。</div><div>しかしそれもこれも、本来の姿に戻ったときの副効用に過ぎず、大切なのは瞑想している姿、その静寂そのものが全ての土台であるという点です。</div><div><br /></div><div>この世界は満点になることがありません、我々の見方次第で良し悪しが決まる以上、二元的である以上、どうしてもそれは50%です。</div><div>その裏にある本当の姿、真理、静寂、そこに全てを満たす何かがあります。</div><div>それを少しずつ味わって、近づいていくことで、その何かが我々を支え続けます。</div><div><br /></div><div>この世界に満点を探していつまでも不足感を感じ続ける必要はありません。</div><div><br /></div><div>そして努力は本当に必要です。</div><div>やってくることに責任を果たし、過ぎ去るものを追わず、魂を知る努力です。</div><div>そうしたことを邪魔して無視する自分の頭の雲、マインド、エゴ、それらを手放し、本当の意味で成長しようとする向上心は無駄になりません。</div><div>多くの人がそうした向上心を無駄だと切り捨てますが、多くの場合はそれらが間違った、どこか自分の都合で歪めた言い訳のための向上心だからです。</div><div>自分がそれをしてしまい無駄にしていたことに気づかないため、無駄だと信じているだけです。</div><div><br /></div><div>ただ、それでも大変なカルマがのしかかるとき、難しいです。</div><div>例えばインド占星術には相に色んな典型モデルがあります。</div><div>師を傷つける、師がもっとも弟子として持ちたくない人の相というのもあります。</div><div>教えを曲解してしまい、師を実際に傷つけてしまう相です。</div><div>でもそれだって別な角度から見れば、そこにはその人にとって別な道筋があるのかもしれません。</div><div><br /></div><div>しかし例えそうだとしても瞑想や信仰は助けになります。</div></div></div>]]>
        
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