2010年7月23日

偽善でもやらないよりマシ?

どうして聖者に会うのか?

そもそも聖者は何者なんでしょうか?

 

人を集めて愛を説き奉仕の実践を説く人たちは大勢います。

カリスマや名声、人々を集めて引っ張る力で喜びを与える何かがそこにあります。

 

一見は善ですが?

偽善というのは見分けにくいです、彼ら自身がまず自分自身を見分けられないとも言えるかもしれません。

 

偽善というのは、何が善かを知らない、わからない、見えない状態で成すことです。

 

神は上から来ると言います。

上から言われているような気がするなら、それは神が上にいるからです。

でもそれを言う人が上ではありません。

それを自分が言っている、自分の力で、自分がしている、というのならそこに神はありません。

それはもう強制です、エゴが介入します。

「こうしたい」という。

 

もちろん人を癒したいというのもエゴです。

しかしそれがエゴであると知ることで、そのエゴ自体が光に当てられて焼かれて灰になります。

あとはただ、やってくるカルマを果たす。

すでにそれは盲目的ではありません、繰り返すのではなく果たすんです、そこに違いがあります。

終わらせる。

 

癒しとは終わらせることでもあります、開放とか放電とかの言い方もできます。

 

無理にでも人を癒したいというのはもう権利欲であり力への渇望です。

人を癒すことがしたくてしょうがないなら、本当にそれを治すことなく、繰り返せばいいだけです。

もうそれは癒しではありません、支配です。

そしてそこにはまずその支配者となろうとする人自身が繰り返している何か、真に癒されなくてはならない何かが隠れています。

 

静寂、平安、幸せ、それらは仮面でしかないという現実がそこにあります。

カラ元気。

 

見分けるのにまず第一だと僕が思うのは、その人が真理を知ろうとして体現しようとしているかです。

その過程にある闇を通り抜ける覚悟を決めて、実際にそれを実践し、光を勝ち取ったかどうか。

 

まず基本的な闇として、この肉体は自分ではありません、個我意識、それらによる一時的な繋がり。

しかし、その内にある愛が永遠なのだから愛を説けばそこに真理がある。

では、そう言うとき結局は肉体的な、または自分の経験や人間関係といった今回限りの限られた形にこだわってはいないか?

しかし、それら自体は流動的ですし、無くなることはない。

では、その関係性をいつまでも同じものにしておきたいというエゴがそこに隠れていないか?

そしてそれを握っている、自覚がない、眠って、忘れてしまっている。

起きていて覚えてないのではなく、眠っていて忘れている。

やってしまった宿題はもう忘れます、覚えていません。

しかし忘れた宿題は、最後に、やらないといけなくなります。

なんせ神からの宿題は踏み倒せません、それがあるから人生を与えられています。

 

この肉体そして人間関係そして生まれてきたことのすべてがありがたい恩寵です。

では、どういった恩寵なのか?

何のために?

真理は?

いったい何が起こっているのか?

 

幸せは外側にありません、いくら欲望を満たしてもきりがありません。

そこに巻き込まれる人々もトラップされます。

結局それは何かを奪うことになります、なんらかの強制です。

それをさせることによってエゴを満足させる、そのかわり一時の幸せと平安を与える。

ですがそれでも一時の幸せと平安を何度も繰り返すことで、悲しみや苦しみに漬かっていた状態から抜け出すことができます。

でも、その先は?

エゴは、そして欲望は満足することがありません。

いずれはその一時の幸せと平安は、静寂を失います、静寂を奪う脅しになります。

 

それが隠れているとき、上から来ている、崇高である、すばらしいもので、幸せに導くと言われているものの裏にはトラップがあります。

 

奉仕の人に会うたびにわれわれは何かを感じます、それは奉仕の人が持つ平安と静寂です。

そこに安らぎをなぜだか感じます。

そこに真の癒しが実践されていて光があり、何も隠れていないからです。

 

密室で隠れて集い約束どおりのルーチンを果たして安堵するゲームとはまったく異なります。

それは眠らされているだけです、なんらかのエゴの欲望のために支配されている。

偽善でも、やらないよりはマシだ、偽善おおいに結構、どんどんやるべし、と。

 

であればまずそれを自分自身にたいしてぶつけ、その隠れている何かにそれが通用するかをチェックすることだと僕は思います。

しかし何が隠れているのか?

そこに光を与えるのが神聖な縁なり叡智です。

それができるのは?

それを自分でやれているという過信を打ち破ることです。

そうしたことに目を向けずともいい、という甘えを。

 

別に、そういうことに興味がないのであれば、面白おかしくしていればいいだけです。

しかし癒しとなると、善となると、愛となると、真理となると、そうした半端は通用しません。

もしそうしたことを真剣に探求するのではれば、通らなくてはならない試練がたくさんあります。

その関門を通過させまいとする誘惑やネガティブがたくさん待ち受けています。

そしてそれを打ち破るたび、大いなる癒しとは何かを知ります、自分の未熟さも。

そのたび、それを通すだけの素質を備えることになれば、本当の意味でそれを淡々と周囲に還元するだけです。

 

そこにはいつも静寂と平安があってこそです、安らぎの喜び。

お祭り騒ぎのあとにそれを取り戻せる人は幸いです、そしてそのお手伝いができればと思っています。

瞑想をして自分の静寂と平安のもと日々を生きるだけでも周囲にそれを与えることができます。

それにはその静寂がすぐに世界のネガティブや騒がしさを吸収しないよう、形をもってそう生きることです。

それが神々との繋がりであり、信仰です。

その日々はいつも平安で、いくら周囲が人ごみの濁流だとしても関係ありません。

そしてその姿は飛びぬけて象徴的であり、神聖な建造物のように安らぎを感じさせます。

一時の幸せのメリーゴーランドではありません。

もちろんあれも幸せで癒されますが、あれがすべてではありませんし、立ち返る場所でもありません。

そうしたことを楽しむには、いつも静寂の守護があってこそわれわれは平安でいられます、無事です。

それこそ大いに結構、楽しむべし、です。

眠らされて忘れないようにするのが大事です。

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