2010年7月 9日

正しいか間違いか

自分の行いに正しいも間違いもありません。
自分そのものがに正しいかどうかです。

正しいとは、自分の本質です。
それは真理であり魂であり神です。
それは静寂です。

何かについて正しいか間違いかを考えることをやめることです。
言うなればそれは、何かを追いかけたり握ったりしてそれを自分の本質だと勘違いしないことです。

それをどこまで高められるかという誠意と努力と探求と向上心。

欲望に振り回されていないか?
独りよがりのエゴイスティックな自己満足で頑固になっていないか?

静寂があり、神そして魂、そして真理があるなら、どんな行いも赦されます。
全ての行いが巡り巡って何かの反動をもたらします。
自分がまず世界を赦すなら、自分のどんな行いも赦されます。

行いそのものが赦しだと言うことができます。
どの行いが赦されて赦されない、ではありません。
ですから、この行いこそが、と気に入らないことです。
赦しとは、エゴや欲望に言い訳や免罪符を与える理由にはなりません。
そこに赦しはありません。
赦さない心があるとき、それは行いではありません。
赦しの行き場を失わせ、どこへも行かせないという摩擦が蓄積され、さらに新たな行いの種を生み出します。

つまり神が行わせるのであって、我々が自分から行うのではありません。
自分で行っている、自分でやっている、というときの「自分」とは摩擦であり、それがカルマやエゴやマインドの癖といったものだと言えます。

行いは、来ては去るものです、それを行う事になる縁があった。
それを赦す、受け入れ、尽くし、手放す。
握るでもなく、拒絶するでもない。

そうあろうとするとき、静寂を知る必要があります。
肉体も自我も性格も、この物質的な世界の有限なことの全てが、自分ではありません。

もちろんそれらは、静寂を知るという絶大なチャンスのために与えられた船です。
創造の母は偉大であり、全ての創造は丁重に、おろそかにせず敬意をもって接するものです。

しかしそれは全ての創造の内なる静寂に対するものです。
見た目に振り回されてしまえばそれは執着でありエゴになります。
愛をもって見つめる目とは違い、渇望の血眼となります。

静寂にあるとき我々は、マインドに振り回されて夢に眠ることはありません。
いつも目覚め、気づいています。
そのことに尽くし、いつでも手放していて、離れていて、それが来ては去るのを見届けます。
もし何かを握ろうとエゴやマインドが働く瞬間、拒絶する瞬間、それに気づくことができます。
もし静寂がなければ知らないうちに眠らされてしまいます。

この静寂から遠くと遠く、ほんとうに想像のはるか遠く及ばないレベルまで遠く離れているのがこの現代、神を忘れた時代「カリユガ」です。
エゴやマインドの小さな箱庭世界でどれだけ考えても想像力を働かせても、それを再び知ることも取り戻すこともできません。
手放し続ける、ただ静寂そのものに触れ続ける、その物量作戦だけが近づかせてくれます。

どんな聖者も瞑想します。
瞑想とは方法や学びやテクニックではありません。
真理に触れているときの姿です、本当の自分を体現しているときの姿です。

そしていつもそこへ近づける、神に近づくのも、マスターに近づくのも、そのためと言えるかもしれません。
そして神やマスターとの関係性に自我を持ち込まなければ、それを我がものにしようという欲に打ち勝てば、静寂を勝ち取れるとは言えないでしょうか?
何故なら神やマスターこそは強力なパワーです。

でもそのパワーは我々を歩ませる土台であり道にすぎません。
その道でレースゲームに夢中なら自分にも他人にも迷惑をかけます。
そのパワーに溺れることから自由になり、ほんとうの自分として全うできるよう歩み続けるには、その道の歩き方を学ぶことが大切だと思います。

例えば「我こそは何々の弟子であり、何々の直系である」と言うとき、そこに潜む虚栄心に注意が必要です。
誰の弟子であるとか、あの聖者に会ったことがあるとか、そのこと自体はあまり霊性には関係ないのではと思います。
たんなるネームバリューです。
しかしそれでも神やマスターはこちらを見ていますし、それだけで祝福があるにしても、弟子とかとかいう話はまた別だと言えます。

例えば、どこを見られてたんでしょうか?
いい服着てるなー、ですか?

あるとき、何かに気づく。

どうして神やマスター、師といった存在があるのか?
例えば瞑想そのものは縁ではありませんが、瞑想をすることが縁です。
縁のもと、神やマスターに近づけます、人間性とはその縁であるとも言えます。

この縁を無駄にしない。
赦し、本当の幸福と喜びは何であるかを探り、分かち合おうとする、何一つ無駄はありません。
ですがその無駄のなさを忘れているとき、我々は不必要に自分をおかしな状態にし続け、または傷つけますから、トリッキーです。
無駄の無さを欠かすなら、それは無駄です(笑)。

自分が正しいかです。
本当の自分。
それは自分の行いが正しいかどうかではありません。
名前も姿も形も主義も主張も考えも肉体も全て、正しいも間違いもありません、全て幻想です。
しかし母の乳飲み子としての姿であり、見る全てもまたその母です。
全ては神です。

しかしその神にすら土台があります、それが静寂です。
土台のない家は崩れます、または別なものかもしれません。
愛と執着を勘違いする人のそれは、静寂ではなく欲望ゆえです。

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