2010年6月10日
全てのはざまにいる
物が欲しい、お金が欲しい、モテたい、これらは欲です。
美しい形にしたい、神聖なものを求めたい、これらも欲です。
良くしたい、こうしたい・・・というのがエゴです。
自分であろうと他人であろうと、思った通りにしたい、という。
ほとんどの場合、人はそのために動きます。
しかし神がさせたいとおりに動くことが一番です。
強いて何がベストかと言うなら、そうなります。
でもそれは理想です、簡単にはいきません。
しかし全てはそれをできるまでの途中、その過程です。
それもまた神がさせたいとおりと言えます。
だからいつも謙虚で、「こういうものだ」と決めつけないことが大切になります。
「自分がそれをしている」とすれば、それは途中で止まってしまいます。
かといって「これは神がしている」というなら自分はその通り道になれるほど成長できているんでしょうか?
神のことをうたいながら人を傷つける人たちは沢山います。
神の名をかたり私利私欲をこやす人たちも沢山います。
神さえもが欲の道具となります。
この幻想の世界を見て、何を握っても、それは欲の道具です。
これを手にしたから自分は大丈夫だと言えるものは一つもありません。
自分が大丈夫、なんてことはありません。
自分などそもそもありません。
はどうして自分は今もこうして存在しているとされるのか。
何故それでもこの宇宙はこのように見せつけるのか。
わかりませんけど、しかし究極的にはその流れに沿えることがベストだと言うことができます。
自分に多くの問題があるのは確かです。
しかしそれもまた自分ではありません。
それは過去からやってきては去るものばかりです。
次に何が来るのかは、自分の行い次第です。
自分にはこういう癖がある、そうかもしれません。
自分はこういう癖なのだ、いいえそうではありません。
それらに気づいた時点で、それは自分ではありません。
気づく意識が本当の自分です。
木にやる水が多すぎても少なすぎても、養分がありすぎても、腐ってしまいます。
常にそうしたことに気づき、謙虚に、そして誠実であろうと努力する。
自分は良いことをしているという自負があるなら、その裏に隠れようとするエゴや私利私欲がないかと。
そしてそれをどこまで手放せるか、もちろん我々は未熟です、でも努力はできます。
そういう努力が必要です、でなければ全ては裏を返せば隠された私利私欲のための行いです。
そういう偽善、噓がそこにあります。
意地悪すぎる視点でしょうか?
しかし善をうたい、善をただ行っているのだ、としながらもどこかエゴイスティックで強権的な人々を見て、腑に落ちない何かを感じたことは?
ありませんか?
それは気のせいでしょうか?
もしそのことを深く気づき、本当の善を求めるなら、まず自分自身について実践する、それからです。
その歩みの日々を与えてもらえたのは何より有り難い事実です。
だから生かされているんだと言えます。
そして神は祝福します、神と言わずとも、ただ祝福されています。
別にあえて神という言葉を使わずとも。
例えば僕は、誰かの魂について考える時、その人のために何ができるかを考えるなら、瞑想と神といったこと以外のことをまず考えます。
何故なら道は人それぞれですし、瞑想や神への祈りをしない人もします。
それでもその人には何かしらの道があるんです。
ではそのなかでその人の魂のために何が働いていて、そこには何が待っているのか?
そしてその人に出会う自分は何ができるのか?
自分がしていることが何であって、それをどう使えるかなど考えません。
もしそれを神が動かすのなら、そういう縁があるならそのときは全力です。
そしてその方法には固執しません、ベストな方法をとるだけです。
ういう形でなければならないということなど一つもありません。
自分のしていることがベストだという考えを捨てれば、神がベストをさせてくれます。
でも僕にできることは小さなことばかりです。
それが大きくなればと願いますし、かといって力を欲しがることもしません。
人が何かを握るとき、神も含めて全てが大きな欲になることもあります。
この宇宙という偉大な創造、この幻想そのものがいつでもそういう牙を剥きます。
そうでない形で創造がなされていくには?
その全てのはざまには何があるのか?
小さく少しずつでもいいからそこへ近づけるように努力できるには、どうあれば?
それが僕の感心です、それすらもが度を過ぎれば欲に変わります。
独りよがりの夢で終わります、一時は夢が形になろうと、ただ不毛に何も残らず消えるだけ。
全てのはざまにいるとき、全てはとどこおりなく流れていくといえます。
そこに摩擦も渦も生じずに、その創造は本当の意味でより美しい方向へと変わっていくと言えるかもしれません。
だから、徳ある行為をしているんだという慢心はとくに一番気をつけたいと思います。
そんなこと、できているとも思いません。
仮にそれに近いことを少しできているにしてもそれは魂がそれまで培って来たことの延長線上にすぎません、僕じゃありません。
しかしそのために生かされている時、魂からの本当の自分を生きている平安がそこにあると言えます。





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