2010年6月 3日
みな神の子
あなたが子供に厳しくしたいなら、まずあなたが神の厳しさを受け入れてください。
あなたが子供を叱りたいなら、まずあなたが神から叱ってもらってください。
鳥はヒナを叱りつけて厳しく当たりますか?
鳥はどのようにして自然界で生きるのかヒナに手本を見せています。
鳥は風にもなれず、岩にもなれません。
我々だって同じです。
でも人だけが叱りつけ、厳しく当たります。
魂が神を知ろうとすることができる、人だけの特別な意識がそこにあります。
魂と神のために叱り、厳しく当たるんです。
ですから、それををまず自分が受け取らずにいれば、でなければそこに必ずあなたの感情やエゴが介入します。
どんなに美辞麗句そして正義と真理と愛の言葉と行為だとしても。
それが相手の魂そして自分自身の魂を傷つけます。
あなたもそうして繰り返し、子供にも繰り返させる。
それがあなたの「自分」を強く保たせている。
それら感情や執着や噓が愛なのではありません。
それらは神の生み出したものでもありません。
神が生み出したものを謙虚に受け取らず、そして手放さないとき、そこに生まれるものです。
「自分が」生み出すものです。
しかしそれもが自在なのが人の特別なところです。
どうしてなのか本気で知ろうとしてみてください。
本来それは我々は神そして真理を探求し、魂を成長させることができる縁にあるからです。
でなければ「自分が」と思うだけです。
実際、「自分が」生み出しているものなど一つもありません、それは幻想です。
ただそこから出てこようとしないエゴがあるだけです。
全ては神のものです、我々も神の子であり、神の一部である魂が内側にあります。
それを求めるには静寂です、そして手放すことです。
いったんその、おかしなものを手放してみることです。
手放せないというのは噓です、手放すことを恐れているだけです。
手放しても去るなら去るし、去らないならそこに残ります、それから去ります。
それがそこに残る間、我々は善処するのみです。
そしてそれが「自分の姿」とか「自分でやること」とか「自分が」と思えば、それは去ることなく、手放さないままです。
ですから一方だけ見て他を見ないとか「これこそが真理だ」と握らないことです。
これが正しいのだから、これが良いのだから、だから教えよう、とか。
遺伝的に見たって、子供のほうが我々より進化した存在です。
魂のレベルも彼らのほうが上です。
その未来を持つ彼らに我々の何が「教える」のですか、馬鹿げてます。
宝のように抱き上げて掲げるものです。
神が同じように我々に授けたものを讃える。
それは神がこの世界に、その子の魂のために授けたものです。
しかし何よりもまず自分自身の魂に噓をついて無礼であってはなりません。
そして、その姿勢と努力の積み重ねだけが、今生での我々の成果であり、その姿が見せられるものです。
それを見せてくれる人たちを見て我々は学びます、神を忘れないでいることを。
神に対する姿勢を学びます。
進化とかレベルとか優劣は関係ありません。
子供を産めるのは神の思し召しです、我々の力じゃありません。
我々が先祖や両親に感謝するのは、彼らが自分の力で産んだとかいうことではありません。
彼らが日々自分達のエゴを捨てて時間を惜しまず献身的に子孫を育ててきたということです。
ただ子供のためを思って、それだけです。
でもそれが自分のためという気持ちが少しでもあれば、自分が思う正しいこと良いことのためにと思うのであれば、それはエゴにすぎません。
しかしそうしたことが感謝だというのも時として疑わしいです、例えば、捨て子はどうなるんでしょうか?
それでも両親の存在があったからこそ今生にやってきた、そのこと自体に感謝するんです。
両親そして先祖、やがては本当の母であるこの宇宙の創造の母「マザーディヴァイン」に至る道のりにおいて、両親そして先祖に感謝して魂を浄化する一つのプロセスを伝える聖者が、とある段階の内容を実行するときの注釈として面白いことを言っています。
「これをするとき両親そして先祖に感謝しなさい、でも『感情をこめる必要はない』、あとはそれで動くから」と。
愛と感情は別です。
しかしそれで何かを失うかもしれないというのは、それが不確かであるゆえの不安です。
愛はあらゆる感情を受け止め、そして赦し、洗い流します。
感情は例えば小さなロウソクが消えないようにいつも不安で必死に自分の力で守り続けるようなものです。
そして愛とは太陽のようなものです、その片端ですら我々全てのロウソクを凌駕して含み包むものです、それは何万倍もの光です。
しかしいったん忘れると、簡単には取り戻せません。
小さな「自分の何々」というものしか見なくなるからです、それが全てだと信じて疑いません、でもそれはほんの小さな世界です。
我々は古代から本当に神に対してお伺いを立ててきました。
でも今はそれをしません。
刺激やテクノロジーだけがどれだけ進化しても、それが欲望やエゴがあってこそと言い訳しても、今の世界、現状、時代が素晴らしいと言えますか?
言い訳にはなりません。
神を忘れれば思い出すためのフィードバックがまた創造されるだけです。
きれいごとは通用しません。
もしそれで愚かしいことをすることになったのなら、それすらも「自分で」していると思えば、繰り返すだけです。
全ては与えられたもの、全ては神のものです。
そして神は好きなときに終わらせる、それだけです。
その間に本当にできることを努力するんです。
それは欲望やエゴに夢見て忘れることはできても、忘れれば虚しさがつのります。
どうして欲望にきりがないのか、これだけおかしなことが起きるのかです。
しかし、どれだけ「自分が」を捨ててきたと自負しても、無意識下のエゴが残ります。
それはプライドや自分の感情を掻き立てる何かです、より根深いカルマそして先祖代々の癖です。
いつも最後に火を噴きます、なかなか逃れられません、とても硬い呪縛です。
そうしたレベルまで注意深くいることが不可欠になります、自力では大変に難しいです。
それを手放し浄化するのは本当にそこまで届くサポートがなくてはできません。
よほど魂の徳分があるか、やはりそれを引き出す一定のプロセスを知る人に出会うことも必要です。
それから神のサポートにゆだねるとき、大きな動きが生まれます、それを受け取る道ももちろんあります。





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