2010年5月23日

最後まで決めつけない

砂がこぼれているのを見て、それがどこへ続いているのか。
「きっと公園の砂場に繋がる」と思えば自分は公園の砂場に行きます。

でも、海かもしれなかったし、砂丘かもしれなかった。

予兆や前兆が来て「きっとこうなる」と決めれば、それはそういう自分の狭さで終わります。

果物を食べることになる。
自分でやろうとすれば、そのへんで買ってくれば普通の桃です。
しかし1年待てば、来るなら来るのだからそれを待ち、いつ来てもいいように日々の努力をしていれば、それを本当に余すことなく受け取れるよう自分を磨き、それにふさわしいよう律していれば、それを期待するでもなく、ただ来るものに誠意を果たすことを幸せとすれば、最後に神の指紋がついた愛と祝福の塊という果物を神が食べさせてくれるかもしれません。

神に任せる時、その狭さを大きく上回るものが待っています。
公園の砂場の砂は、その片隅からやってきたものに過ぎないのだと分かります。

任せるというのは、自分でやろうとしないことです。

でもそれは努力しないということではありません。

やってくるカルマから逃げずに果たし、しかしカルマを好んで癖にしないよう手放す。

しかしそれはあくまでカルマに対する態度です。

それはそれとして本筋は、魂が欲している静寂そして平安を日々受け取る事です。
真理を求める。

努力して、あとは待つ。

何事も自分のものではないと知ることです。
カルマも、マントラや祭壇も自分のものではありません。

全ては神の手の内であると信じ、その流れその計画から逃げないことです。

なまけて避けても、手放せず癖にしても、どちらもエゴの逃げ道です。

自分で決めつけて思い通りにしたいなら、そういうチャンスも巡ってきます。
だけどそれはイルージョンのトラップに足をとられて出て来れないサインでもあります。
それは惰性です、欲望の渦中、終わりの無い猛毒。

人生の目的は魂の成長です。
その人生で何を成すかは過去の印象で終わりきっていないもの、未解決のエネルギーによりけり、カルマによりけりです。
それが来ては終わり去るだけ、それを自分で作ろうとしてしまえば、それは魂を忘れた行為です。

これをすることになる、と決めつけたらTHE ENDです。
小さな範囲の世界、肉体とわずかばかりの寿命の間だけが全てだと。
その先に平安はありません、充足感も。

最悪、死ぬだけです。
そして次の人生があるならあるし、ないならないだけです。
どちらにしたって、魂が成長できる貴重な機会がこの人生という機会です。
人として生まれることは本当の貴重な機会です。
それを忘れ、ただ、あくまで今回の人生の形だけということにとらわれ、野望や富や名声のために動けば、一見それは最大の利益かもしれませんが、最も大切なものを失います。

たとえ神がさせたいことへのインスピレーションで何か未来が見えたとしても、見えるは見えるだけです。
大切なのは、それもそれとしておき、努力を忘れないことです。
神を見損なうな、ということです。
そうすればそれが本当の来た時、それは最も素晴らしい形でやって来ます。

実際は人生だって、美しくしていくことができます。
そうして何かを自分も周囲も受け取ります。
思い通りの幸せを形にしようと走り回っても、それは走り回れる範囲だけと、すぐに失われる一時の小さな満足感だけ。
本当は人生で我々は、もっと巨大なものを受け取ります。

でなければ何かが損なわれ、相応の形です。
どんな形であれ、やって来るものはやって来ます、砂は砂です。
でもそれがやって来た時、何を受け取ることになるのか、何を損なうことになるのかです。
砂はあくまでどこかへと繋がっているにすぎません、そしてその先も重要ではありません。
あくまでそこに砂がある、それだけです。

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